秒読みの声

「いい加減にしやがれ。そろそろ覚悟を決めろよ」と勇次が言う。

「しっかり計画を立てましょう。慎重になるべきよ」と良子が言う。

 

俺は2人のアドバイスに耳を傾ける。

勝負は大事な局面を迎えている。

 

目前の小道は鬱蒼たる木々に囲まれて、先がまったく見えない。

毒を持つ野草には気を配る必要がある。

茂みから飛び出す獣も怖い。

底なし沼に足を踏み入れたら、一巻の終わりだ。

 

10秒

 

胃液が重力に逆らって上がってくる。

どうしても水を飲みたいのに手元にはコップがない。取りに行く時間がない。

おまけに背中が猛烈に痒い。最悪なことに、ちょうど手が届かない場所だ。

誰かの手を借りたい俺一人どこにも味方はいない意識が混乱する。

 

あれはパトカーのサイレンだ。大切な職務中だとは分かっているが異常に腹が立つ。

確かあのとき先生は良いことを言っていたに違いない。真面目に聞くべきだった。

コンゴ共和国の位置が分からない。ケニアにもジプチにも一生行くことはない。

別にペンギンに生まれてもよかったんだ。多分それなりに幸せだろう。

 

20秒

 

17のとき好きだったあの娘は4児の母親になったと聞く。

知らない誰かの幸せを願うほど善人ではないが、不幸を願うほど絶望してもいない。

勇敢な炭鉱夫はカンテラを片手に暗い世界を歩く。多くの部下がついてくる。

頭の中では桑田佳祐がずっとかすれた声で歌い続けている。

 

荒っぽい運転をする愛想の悪いタクシードライバーと口論になった春の日。

「あなたしかいないの」 彼女の言葉を無邪気に信じた夏の日。

証券会社の電光掲示板に張り付く、ヨレヨレのシャツを着た翁を見た秋の日。

イソップ童話を読み耽った冬の夜。「あの葡萄はきっと酸っぱくておいしくない」

 

右下の地が気になる。中央の断点は大丈夫だ。あの石は攻めたら取れるだろうか…。

 

30秒

 

確かジョンかポールが言っていたはずだ、イッツイージー

別に愛だけがほしいわけではない。そんなに若くない。

まるで明日を拒むかのように延々と酒を飲む。大切な会話は記憶から消える。

あのとき俺は隣家が燃えているのに、ずっと自分の部屋にいた。

 

堤防で猫と一緒に時を過ごしたときは幸せだった。

ヒステリックに結婚を迫り続ける彼女に飽きてきたけれども別れられなかった。

夢を語り合った親友はいま上司の愚痴ばかりこぼしている。

坑道の酸素は減り続けている。あの大石は取れるのだろうか?

 

50秒

 

「どこへ打っても変わらねえよ。もう決めてしまえ」と勇次がわめく。

「ダメよ最後まで考え続けるのよ。きっと素晴らしい手があるわ」と良子が叫ぶ。

 

桑田佳祐は必死に何かを伝えようとしている。

俺はそんなに立派じゃない。だけど最良の選択を迫られる。もう逃げ出したい。でも打つしかないんだ。

 

55秒、6、7、8…………