碁会所のK先生

碁会所席亭のK先生は自称七段の腕前で、いつもヘボたちの打つ手を容赦なく叱責していた。

 

 「そんな手を打っているから上達せんのや」、「下手糞のくせに早打ちするな」、「この程度の詰碁もできんのか?」

 

K先生は坊主頭の強面で、声も大きいから迫力がある。叱られた教え子たちは言い返すこともできず、肩をすぼめて俯くばかりだ。なかには泣き出しそうな顔をしている級位者のご婦人もいた。

この人に習って楽しいのだろうかと、子どもの僕はいつも不思議に思っていた。でも生徒たちは翌週もやはり碁会所に顔を見せていた。

 

当時の碁会所は喫煙可だったから、常にタバコの煙がもうもうと立ち込めていた。碁盤には灰の焦げ跡が何箇所もあり、誰かが落とした碁石は、そのまま床に落ちていた。棚の上には埃が溜まり、壁には色気のない成績表が乱雑に貼られていた。

 

K先生が客を笑顔で迎えることはない。席料を受け取る際に礼も言わない。店の宣伝もしない。お茶も出さないし、なんなら電話にも出ない。売り上げの帳簿があったのかも疑わしい。

 

それでも店は、大勢の人で賑わっていた。

近所にもう1軒、広くて小綺麗な碁会所があったのだが、そちらはあまり繁盛していなかった。

多くの客は、何故かK先生のところを選んでいたのだ。

 

子どもは、だいたい僕ひとりだった。

たまに他の子が習いに来ても、すぐに居なくなった。仕方がないので、僕はいつも大人に混じって碁を打っていた。そして、多くの子どもがそうであるように棋力は加速的に伸びていき、やがて自分より強い相手がほとんどいなくなった。そうなると自然に足は遠のく。

僕はもっと強い人がいる、他の場所へ通い始めた。

 

そのとき、K先生がどんな心境だったかは、知る由もない。

 

時は過ぎて大学生のころ、K先生から電話が掛かってきた。碁会所にはずっと行っておらず、存在すら忘れかけていた頃だ。「久しぶりに会おうや」

20歳になった僕を、K先生は飲み屋に連れて行った。K先生はものすごく上機嫌で、もう1軒、もう1軒とはしご酒を楽しんだ。それからは数カ月に一度は2人で飲みに行く、蜜月ともいえる日々がしばらく続いた。

K先生は帰り際には必ず、「嫌がらずに、また遊んでくれよな」と僕の手を握りながら懇願した。その頃のK先生は、もう以前のような強面ではなく、すっかり好々爺の顔つきになっていた。僕は割と楽しかったので、誘いがあればだいたい応じていた。

 

でも、あるときから電話は掛かってこなくなった。K先生の体調が悪くなったのだ。

 

K先生の訃報を聞いたとき、僕は特に何も感じなかった。

かなりの高齢だったし、寿命なのだろうなと思った程度だ。

既に碁会所は畳んでいたし、特にやり残したこともない、良い人生だったはずだ。

 

49日が過ぎてから僕はK先生の自宅に呼ばれて、奥さんから形見の碁石をいただいた。脚付きの碁盤も貰ってくれと言われたが、置く場所がないからと断った。

 

またK先生のことを忘れて、かなりの年月が過ぎた。

 

そして最近、僕は自分で碁会所をつくった。

全く意識していなかったが、僕はK先生の意志を継ぐ形になったのだ。ある日カウンター越しにお客様が碁を打っている光景を眺めているとき、ふとその事実に気が付いた。

 

そして唐突に理解した。

 

K先生は表情には出さなかったけれども、碁会所の扉が開くごとに大きな喜びを味わっていたのだ。生徒たちには本気で強くなってほしいと願って、厳しく接していたのだ。客が帰る際には、心の中で「また来てくださいね」と声を掛けていたのだ。

大人たちは、毒舌の奥にある、人に対する深い愛情をK先生から感じ取っていたのだろう。決して商売上手ではなく不器用だけれども、正直で一本気なK先生は慕われていたのだ。だからK先生の碁会所は多くの常連客であふれていた。そこは確かに小汚くて騒々しかったけれども、同時に居心地のよい実家のような場所でもあったのだ。

 

そして僕は、懐かしさに浸りながら、同時に不安も覚えた。

果たして僕もK先生のように、立派に自分の仕事を成し遂げられるのだろうかと…。

しばらく天井を眺めてから、目を強く閉じてかぶりを振った。

自信はないけれども、まあ頑張るしかないか。

弱音なんか吐いたら、天国の厳しい師匠に怒られるからな…。

 

そんなわけで、僕は明日も碁会所の扉を開く。

たぶん、あの日のK先生と同じ気持ちで。  (鉄)